変化を踏み出すとき、外から見るとゆっくりに見えても本人なりに必死にチャレンジを積み重ねている、十代後半の男性がいました。 昔から人の多い場所は得意ではなく、義務教育期間は自宅でひっそりと勉強をしていました。中学の最後に、仲の良かった数少ない親友が遠くへ引っ越してしまい、なんとか決めた通信制の高校は、続けることができませんでした。環境の変化が苦手で、新しい場所に行くと声が出なくなります。そうすると社会の中では困ることが多かったようで、自分の好きなアニメの映画を見に出かけることも、なかなか気が進まなかったようです。 ご家族が支援機関での相談を続けていく中で、父の友人から家庭でできるデータ入力の作業を紹介してもらえるという、一つのターニングポイントがありました。「やってくれるかな?」と心配しながらも慎重に誘いかけてみると、しばらく間をおいてから、小さくうなずきました。 ご家族が驚いたことに、最初に説明を聞きに行った日、彼はタンスの奥にしまってあった白いシャツと黒いパンツを取り出して、身なりを調えていたそうです。そうした新たな取り組みも落ち着いて来た頃、ご家族としては「将来、私たちがいなくなったときのために、他の誰かと関わる経験を持ってもらえたら」と、外での活動を求めるようになっていました。 情報を集める中で、一か所、本人が一緒に話を聞きに出てくれました。そして、一か月ほど考えた後に見学をされ、さらに一か月後、今度は体験に参加されました。その間にどのようなやり取りがあり、彼がどのように考えていたのかは分かりません。ただ、一つのことを踏み出すのに迷いと葛藤がある彼は、じっくりと咀嚼して考えてくれていたのだと、今になって思います。 参加された場所では落ち着いて集中できる環境を準備し、まずは短い時間から利用を始めていきました。取り組みはとても丁寧で、手先の器用な仕事ぶりです。しかし十回ほど参加されても、私はまだ一度も、彼の声を聞いたことがありませんでした。 あるとき、いつものように「作業で、何か困っていることはありますか?」と尋ねると、いつもは首を横に振るところを、ゆっくりと振り向き一呼吸置いて、消え入りそうな声で「ハサミ」と教えてくれました。自分から表現することは得意ではないため、ともすると静かに過ごして帰っていかれるその彼は、一つひとつ丁寧に向き合う「人一倍のがんばり屋」なのかもしれません。 ハッと繋がった気付きの声、なかなか言えずに隠してきた自分の気持ち、本当はやってみたいことを勇気を出して伝えた言葉など、「VOICE(声)」にはさまざまな思いや心情の物語があると思います。「ハサミ」という一つの言葉にも、さまざまな背景や事情を乗せた、重みのある響きに聞こえてくるのは不思議ですね。 現在彼は、少しずつ家族以外の人との言葉のやり取りに踏み出しながら、毎回彼なりの勇気を出し、その場所に通っています。